熊本・大分地方で震災に遭われた方々に心よりお見舞い申し上げます。
突然の大きな揺れが連日に渡り起きているようで、さぞかし不安な毎日を送られているとお察し致します。
私も、つい5年ほど前に起きた東日本大震災の時は千葉県に住んでいました。1ヶ月以上にも続く余震に生きた心地がしませんでした。
それに加えて、福島第一原発の事故。当時6歳だった子どもを抱えて、本当に怖くて不安で、子どもに何も起こらないことを祈るばかりでした。
3.11の地震の恐怖は一生忘れない
3月11日、午後3時ちょっと前。地震が起きたとき、私はパソコンに向かって確定申告の申請の作業をしていました。突然大きな揺れにおそわれ、部屋中のモノが落ちてきました。私の背後には本棚があり、その本棚も崩れそうになり、あわててその部屋を出ました。
神棚のコップは振り落とされ、マンションの部屋は長時間にわたり揺れ続けました。これまで経験したことがないほど激しい揺れ。とっさに思ったのは浜岡原発のことでした。
浜岡原発については、関東地方に大きな地震がきたら真っ先に危ない原発だと言われていいるのを何年か前に知りました。なので浜岡原発で何かが起きていなければ良いのに、何かあれば情報がすぐに情報が欲しいと思い、パソコンをつけてヤフーニュースに張り付いていました。
地震が収まり、仕事どころではなくなったので子どもを保育園に迎えに行きました。子どもは無事かどうかも早く確かめたかったのです。
子どもを迎えに行くと、子どもたちはお昼寝のすぐ後だったようでした。保育園は、いつもと変わらずガヤガヤとにぎやかでした。子どもに「今日の地震怖くなかった?」と聞くと、首を傾げていました。どうやらお昼寝している時間だったようであんまり恐怖はなかったようです。
子どもをつれて帰る途中で、スーパーに寄り、食料品を買って帰りました。その時はまだスーパーに商品はたくさんありましたし、人もあまりいませんでした。それから数時間後、町中のスーパーや店から食料品がなくなりました。夜、たまたま切らした食品を購入しに近所のスーパーに出かけたら、そのスーパーには何一つ商品が売られていませんでした。
スーパーはモノがなくとも開店していました。
その日から停電で、私と子どもはろうそくの火で夜を過ごしました。
震源地近くの実家に電話して安否を確認しようとしましたが電話がつながりません。
テレビを見ると、津波の映像が流れてきました。連絡の取れない家族がどうか無事でいることを祈るばかりでした。
主人は夜遅く、日本橋あたりから歩いて数時間かけて帰ってきました。
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福島第一原発の事故、恐怖と不安の日々
福島第一原発の事故を知ったのはどのタイミングだったのか忘れました。どんな事故だったのかはしばらくは知らされていませんでした。家族の安否と原発事故の現状。どれもこれも全く私はコントロールできません。無力を感じる日々でした。
福島第一原発の情報は、テレビの情報よりもインターネットで詳しくやっていました。インターネットの情報を追いかけるように探しました。
日本に滞在する外国人のほとんどが強制的に帰国させられるか、関西の方へ逃げているようでした。日本人だけが、半径30キロ以内くらいなら危険ではないと言われ、福島第一原発を中心にした円を何度も見せられました。
しかしそんなことは全くアテにならない情報でした。なぜなら、放射能は風向きに影響されるからです。風向きによっては現場から100キロ離れていても放射能の影響を受けます。放射能は無味無臭なため、空気すら安心して吸えない状態でした。
常に外出するときはマスク着用。子どもには厳しく言い聞かせましたが、子どもはマスクがじゃまで、私が見ていないところではずしていました。
私は、子どもを激しく怒りました。そしてチェルノブイリの映像を見させ、「こんな風になっちゃったらどうするの!!」と言っていたのでした。
私はかなりナーバスになっていました。あまりにもナーバスなので主人が私と子どもを主人の実家のある山陰地方に一時避難させてました。
山陰地方は、全く放射能の影響がない場所だったため、久しぶりにマスクをはずし安心して空気を吸えました。水道の水も安心しして飲めました。
2週間くらい滞在して、子どもの入学式があるので関東へ戻ったときはまた恐怖と不安の日々でした。
次に大きな地震があったら、関東地方は人が住めないとまで言われていました。子どもに何もないことを祈りました。そして将来、この原発事故の影響が子どもにでないためには私は何をしたらよいのか真剣に考えました。
その答えが、日本人の昔ながらの食事でした。広島長崎での原発事故で救われた人たちがその証拠でした。日本食のすばらしさと日本食があったおかげで、私は不安と恐怖を乗り越えられるかもしれない、子どもも大丈夫だとという希望を持ちました。
恐怖と不安は乗り越えられる
大震災と原発事故。ダブルで恐怖に突き落とされ、不安に襲われた日々でしたが、三ヶ月ほどで光が見えてきました。しかしそこまでたどり着くには長い長い真っ暗なトンネルを逆走しているような底知れぬ怖さと不気味さがありました。
熊本と大分で現在震災に見舞われている方々も同じような心境だと察します。余震はまだまだ続きますが、地震は一度大きなものがきたらあとは沈静化するだけです。今が一番大変な時期ですがどうか安心してぐっする眠られる日が早く訪れるようにお祈りいたします。
日本中、世界中の人たちが熊本と大分に愛を送っています。どうか希望の一筋の光を受け止めて下さい。
そして、必ず平和な日々が帰ってくることを信じて下さいね。
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