実は、この「謝る」には深い意味があったのです。
その驚きの意味とは?
謝ることはタイミングやテクニックだと思っている時点で危険
先日より、「あなたの子どもを加害者にしないために」という中尾英司氏の著書から犯罪者にしない子育てについて知識をモリモリつけています。
本日は、「共感力に乏しい親が陥る「心理的ネグレクト」」についてご紹介します。
少年Aの両親にとって、この「謝る」という行為が、少年Aを犯罪者に向かわせてしまった一因になっているという恐るべき仮説があります。
少年Aの両親は「謝る」について何を誤解していたのでしょうか?
結論から言いますと、親が本来の意味の「謝る」ことができないと、共感力に乏しい子どもが育ってしまうのです。
この「謝る」と「共感力」についての悩ましい関係についてを詳しく見てみます。
共感力に乏しい親が陥る「心理的ネグレクト」
共感力は、親が子どもの心に寄り添うことで育っていきます。
卑近例ですが、私の親はとても厳しく、私の心に寄り添うということは一切ありませんでした。
学校で理不尽なことがあっても、「おまえが悪い」と言われるばかり。
そのせいなのか、私は共感力が育たず、後々とても苦労しました。
少年Aの母親も彼の心に寄り添うことなく、母親の勝手な解釈や理屈で全てを片づけられていました。
その結果、少年Aは人を人とも思わない残忍な心が育ってしまったと考えられています。
特に、少年Aの母親は「謝る」という行為に対しする姿勢は、酷かったようです。
謝ることはセレモニー?
事件を起こす前の小学生の頃。
少年Aが悪さをする度に、母親は少年Aの被害に遭った子や親に「謝って」いましたが、それが少年Aの母親にとって単なるセレモニーになっていました。
母親のみならず、この家族にとって「謝る」ことは、「謝った」ことで自分自身が身軽になるため行うものでした。
そして、被害者の子や親の気持ちは二の次三の次。
セレモニーとして謝っていただけでした。
本来「謝る」とは、傷ついた相手の気持ちに共感し、「あぁ、こんなに悲しい気持ちにさせててしまった」と相手と同じ気持ちを味わい、受け入れ、被害者が受けた気持ちを分け持つことです。
子どもが悪さをしてしまったら、相手と同じ気持ちを味わわせて、相手の不愉快な悲しい気持ちを悪さした方も分け持つことができれば、子どもは、共感力も付き、「謝る」という行為も初めて意味を持ちます。
それを単なるセレモニーで片づけてしまうのはとても危険なのです。
少年Aの親は手記の最後でもこのような一文を書いています。
「Aを被害者の方の家へお詫びに連れて行くまでは、死んでも死にきれない」
被害者がセレモニー的にAに謝ってもらっても不愉快な気持ちにしかならないのに、自分自身が楽になりたいために、父親のエゴのために「少年Aに謝らせたい」というのは最後の最後まで「謝る」ことの意味を分かっていなかったということです。
謝ることはタイミングやテクニックではない
社会でも、何か不祥事が起きるとトップが出てきて「謝って」います。神妙そうな表情で深々とお辞儀をしているけれど、それが単なるセレモニーでしかありません。
会社や仕事は粛々と作業を行うところなので、二度と起こらないように防止策を立て同じ不祥事を起こさなければそれで良いのです。
しかし、子育て環境においては、「謝る」行為を会社の不祥事のような取り扱いでいると子どもの共感力の芽をもぎ取ってしまうことになりかねません。
この力があれば、人付き合いには困りません。